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まちに森をつくって住む
まちに森をつくって住む (JUGEMレビュー »)
甲斐 徹郎, チームネット
「百の知恵双書」第8巻
住まいをつくる誰もが豊かな環境を得たいと思う。しかし、住まいをつくることによって、逆に地域の自然環境を破壊しているとしたら、それはなんという矛盾だろう。
これからのすまいづくりにおいて最も得な方法は何か。
それは地域の緑の価値を見直し、それを快適な「天然の空調装置」として住まいに活かすことである。
本書はこうした視点に立ち、個人の住まいづくりと街の環境づくりをつなげるビジョンと実践例を示し、本当の快適さを体感するための「エコロジー住宅市民学校」を誌上開講する。
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参加するまちづくり―ワークショップがわかる本 (JUGEMレビュー »)
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「百の知恵双書」第5巻
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時が刻むかたち―樹木から集落まで (JUGEMレビュー »)
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「百の知恵双書」第6巻
昭和20年代の暮らしを経験している人の中には家庭でミシンを踏んでいた母親の姿を記憶している人は多いでしょう。その時代にまさに日本人の洋装革命が静かに行われたのです。昭和のくらし博物館の小泉和子さんのグループはこの歴史に埋もれがちの「洋裁の時代」を丹念に検証し、この時代に女性たちがどのようにして洋服を自分のものにしていったかを明らかにしました。本が出ると、朝日新聞、毎日新聞が大きく書評欄で取り上げてくれましたが、改めて昭和の暮らしを検証することの関心の深さを感じました。
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残された絵


正月に国立の実家に戻ると、一冊の冊子が送られてきていた。
尾崎眞人監修『池袋モンパルナスそぞろ歩き』
池袋モンパルナスに生きた画家たちを56頁の冊子の中に丁寧に纏めている。母に聞くと父の作品の掲載許可を昨年求められたので快諾したという。父は池袋の椎名町駅近くに若い頃住んでいて、隣近所には麻生三郎や寺田政明といった友人の画家がいたという話や
長谷川利行がやってきてキャンバスが白いと何でも描いてしまうので難儀したという話を思い出した。この冊子によると、父は谷端川アトリエ群と桜ヶ丘パルテノンに居住していたことになっている。
戦前、父が描いた絵で空襲で灰燼に帰さずに残されたのはたった一枚、27歳の時(1941年)に描かれた200号の「水辺」だけである。冊子には丁寧なアトリエ村の関連年譜が付いていて、それを見るとこの年はシュールレアリズム弾圧事件があった年だということわかる。父の師だった福沢一郎とともに父も捕まっていたのだろうか。板橋区立美術館は池袋モンパルナスに暮らした画家の作品を多く収蔵している美術館として知られるが、「水辺」を収蔵してくれたこの美術館は、私にとって父の墓のような気がしている。


●尾崎眞人監修『池袋モンパルナスそぞろ歩き』
 編集・発行 池袋モンパルナスの会
 定価 1200円
| 国立の記憶 | 14:51 | comments(9) | trackbacks(0) |
創氏改名


私には創氏改名という史実を知識としてではなく、悲しむべきこととして体験したことが一度だけある。
私の父が死んだとき、残った私たち家族が暮らす土地の相続の手続きのために、父方の祖父が戸主になっている除籍謄本を入手しなければならなくなった。父方の祖父の名は金聲培といい、慶尚南道山清郡に本籍があることがわかった。
私は苦労してハングル語でその行ったことのない父の故郷の役所に手紙を書き、祖父の謄本が必要なわけを説明し、謄本を送ってくれるように頼んだ。送られてきた古い謄本はハングル語ではなく、漢字とカタカナで書かれており、創氏改名をした事由のカ所は抹消され、年号も日本の年号は韓国のものに訂正されていた。謄本はたくさんの附箋がついおり、創氏改名の跡が現在に至るまでまざまざと残され、胸に迫るものがあった。
父は死ぬまでに5回名前を変えていたのであった。4回は他人によって、そして最後は自分で。10歳のときに金三律を金錘南に、そして昭和15年の創氏改名によって金和平に、戦後金錘南に戻ったが、日本に帰化した父はその名を捨て、真鍋英雄となった。
ようやく書類を準備した私は登記所に行き、謄本の説明をした。窓口の官吏は生前にいくつも名前が変わった被相続人をいぶかしげに、これでは登記ができないという。私は弁護士に頼むことにしたが、そのとき官吏が私に言った言葉が忘れられない。
「それで、創氏改名ってなんですか?」
私は憤怒を越えて、とても哀しい顔をしていたに違いない。
| 国立の記憶 | 21:09 | comments(3) | trackbacks(0) |
棄てられなかった詩


父が死んで20年近くが経つ。
あるとき父の遺品を整理していて、
古い戦前の日記の中に小さく折り畳まれた漢詩を見つけた。
私の祖父にあたる人が日本に遊学する少年時代の父に送った漢詩であった。
父は朝鮮の人で、戦後日本に帰化したのであったが、
彼自身が親族のことや祖国のことを子どもたちに話すことは一度もなかった。
父は苦学して福沢一郎を師と仰いで絵の道に進み、そして祖国を棄てた。
だが日本人になってもついに棄てることのなかった漢詩。
今、その漢詩は私の仕事場で、私を激励している。
| 国立の記憶 | 14:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
クロ


私の小学1年時代は散々だった。お多福風邪をやり、治ったと思ったら猩紅熱にかかった。41度の高熱になり、急いで立川病院に隔離された。親と会うのも金網越しである。他の子供が退院するなかで、私だけが取り残された。クリスマスの前には退院できるよ、と励まされたが、結局クリスマスを病室で迎えた。病院の食事が悪かったのだろう、脚気にもなってしまった。今でも病院の食事の匂いが蘇ることがある。
退院した日、家で迎えてくれたのは雑種の黒い子犬だった。両親からの遅いクリスマスプレゼントであった。
2年生の夏休みにクロの絵を緑屋が募集した絵のコンテストに出した。特選になり、通っていた小学校に大きな世界地図が送られ、全校生徒の前で校長から褒められた。担任の岩崎先生は絵の具のセットを褒美にくれた。しかしわたしは素直に喜べなかった。父から辛い評価をもらったからである。
クロは雌で、とても近所の犬たちにモテた。小さいのから大きいのまで、知っている犬から初めて見る犬まで家にやってきた。クロはいやがって逃げるが、多勢に無勢。父はついに犬小屋に蓋をしてしまった。クロは一度だけ子供を生むことが許された。
その頃、子供たちにとって、とても怖い大人たちがいた。犬さらいである。犬さらいが来た!と近所から知らせが入ると、子供たちの顔はひきった。犬さらいはいつも2、3人で縄を手に持ってやってきて、片っ端から犬を捕まえていった。その頃は放し飼いがふつうだったのである。
小学4年の秋、近所の家よりだいぶ遅れて私の家にテレビが来た。家族がテレビに熱中していたある日の夕刻、クロは誰にも知られずに息を引き取った。
| 国立の記憶 | 14:52 | comments(2) | trackbacks(0) |
国立の最初の家


私は1952年2月22日、東京都下北多摩郡国立町中区186番地で生まれた。家が建てられたのはその2年前の1950年、ちょうど住宅金融公庫ができた年である。売りに出された1反の土地を4家族で分け、南西の土地を父親が手に入れた。水道が引かれるまでは井戸が4軒の家の真ん中にあった。この家ができたとき、金融公庫から酒2本が届けられたという話を母から聞いたことがある。
杉の下見板張り、白ペンキの木製建具、赤茶のセメント瓦の質素な小さな平屋である。憶えているのはただ広い(といってもそれは子供の感覚で、実際はかなり狭いのだが)板の間だけの家だったことである。雑巾がけしている母親の側で、板の間に寝転がり、天井に写るバケツの水の反射を飽きもせずに眺めていた。
3畳の和室が東側についていて、板の間との段差が50センチほどあり、間に踏み板が一段あった。板の間の天井高をできるだけ稼ぎたかったからである。父は売れない画家で、この板の間で仕事をしていた。冬はダルマストーブと小さな掘り炬燵、夏は畳の部屋に蚊帳を吊って母と寝た。
家の西側にニワトリ小屋があり、毎朝、小屋に入り、卵をとってくるのが、私の仕事だった。小学校3年頃、ニワトリ小屋が壊され、ニワトリもつぶされた。風呂と和室が2間増築されて、賄い付きの下宿を始めた。水道と都市ガスが引かれたのもその頃だったと思う。
| 国立の記憶 | 23:16 | comments(1) | trackbacks(0) |
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